週末に焙煎をして、音楽を聴きながら珈琲を飲んで、気持ちがどこかに飛べたらそれで良い。
ただそれだけだったんだけどな。
もっと美味しく。
もっと心地良く。
もっとオリジナリティを。
もっともっと。と欲が出てくる。
あの店みたいに、あの人みたいに。
目指すカタチが具体的になればなるほど、何かのコピーのようになりオリジナリティが薄まっていく気がした頃、気分が落ち込み、自問自答を繰り返すようになりました。
そもそも信頼できる珈琲屋さんも好きなカフェや喫茶店もあるし、自分でやる必要性を感じていた訳でもない。
「自分は珈琲で何をしたいんだっけ?」
この問いに直面し、思考の海に沈んでいきました。
自分の記憶にある美味しい珈琲を目指しても、どうしたって理想とはズレる。
焙煎しては捨て、焙煎しては捨て。
こんなもんか。と、こんなもんじゃない。を行ったり来たりする日々。
ブレンドを作りたいと思った時も、教科書的に「〇〇対〇〇の割合」のように試してみれば、それっぽいモノは出来たけど、そこに自分はいない気がして、なんか違う。となっていました。
昔から学校や会社という社会性に適応できないタイプで、表面上の作り笑いと現実逃避で何とか毎日を乗り切ってきた自分にとって、「生きづらさ」みたいなものは常にセットだったような気がします。
もしかして、このどうしたってズレる感覚的な部分が、自分らしさに近づく種なのではないか。と思い始めた時から、少しずつ珈琲に向かう気持ちも変わり始めました。
コーヒーの専門店に求められるような様々なコーヒー豆を取り揃えること、アナエロビックファーメンテーションやカーボニックマセレーションのような個性的な発酵の豆、さらにはゲイシャなどの高品質で高価なコーヒーを扱うこと、季節やイベントごとに変わるブレンドを作ること、過度に珈琲の説明をすること。
こういったことから距離を取り、夕暮れを眺めている時の気持ちとか、好きな珈琲屋さんに通っていた時間とか、楽しかったことや後悔していることのような良くも悪くも記憶に残っていることのような、自分の中に意識を向け続けました。
辿り着いたのは、「時間という儚さをテーマに、珈琲という手段を使って日常と非日常の合間を表現してゆけないだろうか」ということでした。
そして、HareとAmeというブレンドの着想を得た頃から、やっとで自分らしさの輪郭が少しだけ浮き上がってきたように思います。
「目で見た景色に重ねた心の色」という言葉を頭に置いて、記憶に残っている時間や風景、言葉や気持ちを元に珈琲を作りたいと思っています。
「珈琲で何をしたいんだっけ?」
今現在の答えは、
「珈琲で珈琲以外の表現をしたいし、珈琲以外で珈琲の表現をしたい」です。
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